創始者挨拶

中島多加仁


戦国時代に天下人が次々と輩出した土地、それが名古屋です。
これは単なる偶然ではありません。
なぜなら天下を取るために名古屋は、絶妙な場所にあったからです。
まず、織田信長が那古野城から出て清須城を手に入れ、岐阜へ進み、安土城へと勢力を伸ばしました。これは現在の東海道本線と同じルートで京を目指していたのです。
信長は京を征服したかったけど、明智光秀の反乱で頓挫しました。
そして天下を手中にしたのが豊臣秀吉でした。尾張の中村という田舎出身の最下層の身分でありながら信長に重用され、明智光秀を討って天下人になったわけです。
秀吉は大坂城を造り、そこを都としました。そして秀吉の没後、天下を取ったのは徳川家康です。
このように天下人が3人とも、名古屋圏(尾張と三河)から輩出しているのです。
ところが天下を手中に収めた名古屋人たちは名古屋を都にしませんでした。
信長は京を狙い、秀吉は大坂を作り、家康は江戸を開いたのです。
3人とも名古屋からスタートして天下を取ったあと名古屋に帰りません。
名古屋は天下取りに適した場所ではありますが、天下を取ったら戻ってくる場所ではなったのです。
ぼくは名古屋出身ですけれど、祖父は東京生まれの東京育ち。

祖父の血が騒いだのか、28歳で東京へ出て会社を設立しました。
「でも、やっぱり地元の名古屋でも成功させたい!」

そう考えて、2009年3月3日、ほしよみ堂が名古屋で産声を上げました。
なんとか11年続けましたが、コロナの影響で閉店し、そのあとは店舗を間借りしながら細々と運営していました。



ぼくは名古屋出身で27歳まで住んでいました。
当時は名古屋を中心に東京と京都でセミナーを開いていましたが28歳で上京。東京を拠点として京都と広島に出張していました。
じつは、ぼくの先祖は尾張の豪族で戦国時代は大名だったのです。
織田信長に焼かれた尾張一宮の中島城の城主で、のちに秀吉の配下について関ヶ原の合戦で活躍し、大阪夏の陣で討ち死にしています。
彼の名を中島氏種(うじたね)といいます。
先祖をさかのぼると光源氏のモデルとなった源融(みなもとの・とおる)で、その父親が嵯峨天皇です。そんな血統の氏種は七手組頭の筆頭に出世し、片桐且元が上層部に睨まれ、揉め事が起きた際には調停役となったほどの有能者。
冬の陣では2000の兵で守備し、夏の陣で遊軍として活躍。
小説『のぼうの城』に東南の門・佐間口寄せ手として長束正家、中島式部少輔と。
この中島式部少輔が氏種です。
さらに面白いのが、ぼくの母方の先祖に後藤基次(もとつぐ)という槍の名手がいます。
世間では『後藤又兵衛(またべえ)』として有名です。
又兵衛は黒田官兵衛の与力でしたが、関ヶ原の合戦のあとお家騒動に巻き込まれて浪人となり、真田幸村と共に大阪城に入城。豊臣側について徳川勢と戦いました。
まず冬の陣では大阪城の北にあたる京橋を氏種が守り、又兵衛が大阪城の西側で大奮闘しています。
そして翌年の大坂夏の陣にて又兵衛が6月2日に戦死し、翌日に氏種が自刃しています。
そんな偉大なご先祖さまたちに恥じない生き方をするため、ぼくは起業して経営しています。



さらに付け加えると、ぼくの曽祖父は尾張一宮で『いろは』という屋号の機織り工場を経営していました。尾張の繊維業は日本でも随一を誇りますが、そのなかでも『いろは』は、尾張で三本指に入る大規模な工場でした。日中戦争が加熱化し、曽祖父は一念発起して機織り工場を零戦工場に鞍替えし、お国のために奉仕したのです。しかし大空襲に遭って全損し、中島家は全てを失いました。戦後は宗教家になって、悩める人々を救った地元の名士として活動しています。

ぼくは立派なご先祖様にご恩返しがしたくて、東京や関西だけでなく名古屋で事業を発展させたいのです。その足がかりとして『ほしよみ堂』を作ったのですが、いまいち名古屋だけ破壊力に欠けるのです。
つまり、ぼくの唯一の悩みが名古屋での不発です。
28歳のころから全国でセミナーを開くも、おもに東京と京都、広島がメイン会場で、地元の名古屋だけ人が集まりませんでした。いや、正式には集まったんです。けれど、東京や他の地域と違ってクチコミでの広がりが起こらないんですね。だけども【知り合い】ならば名古屋は多いんです。しかしながら名古屋の知人友人から発展が起こりません。
そこで、お願いがあります。
名古屋の地で活動する占い師を募集します。

質の高い鑑定を提供したいので、ぼくが責任を持ってみなさんを育てます。





ほしよみ堂創始者 中島多加仁


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